幻の恋人ある日、会社の知り合いからこんなメールが届いた。一部抜粋。
残念ながら、私は生まれてこの方、彼女というものを持ったことが無い。そして、「彼女ではないが、綺麗な女の人と一緒に居たんだね?」という突っ込みにも、応えはノーだ。 文面を見ると、この人はかなりはっきりと私の姿を目撃したように受け取れる。それなりに確信があったからこそ、ここまで書いてメールに書いてきたのだと思う。 しかし、実際にこの時間、私が新橋の駅に居なかったことは事実だ。私はこの日に家で『水戸黄門』を観ながらビールを飲んでいた。我が家では『水戸黄門』を観ることが半ば義務となっているため、放映を終了する21時に自宅に居た事は確実なのだ。 そこで、私は以下のような返事を返した。
上のような返事は返したが、メールをくれた人も、私にそっくりな人を見かけたことは確実だろう。つまり、私にそっくりな男が綺麗な女性と21時半に、新橋駅で優雅に歩いていたわけだ。 新橋で歩くことが優雅なのかは分からないが、私と同じ容姿を持った男が、「綺麗な女性」と歩いていたというのが、信じがたい事実と言える。というか、信じたくない。「綺麗な女性」が、そんな男よりも先に私と出会っていれば、「綺麗な女性」は私に惚れていたわけだ。悔しい。悔しすぎる。人生不条理だ。 私は過去何度告白して振られたか分からないくらいだし(そうでもないか?)、今は「女性」そのものと会う機会すらない。ましてや「綺麗な女性」となると一生のうち2〜3人と知り合えれば多いほうだろう。しかもその中で、二人で21時半に新橋駅を歩ける幸運に恵まれるなど、宝くじにあたるに等しい。(幸運なのか?) 実際に宝くじにあたる奴というのは、こういう幸運が服を着たような奴に違いない。私は去年、新橋の宝くじ売り場で買って外れたが、奴は当たったに違いない。それもきっと、買うタイミングが奴と逆であれば私のほうが当たっていたのだ。悔しい。悔しすぎる。人生不条理だ。 時間も微妙なところだ。21時半。これが一体何を意味しているのか。この時間から山手線で新宿か渋谷あたりに出て、喫茶店で1時間ほど会話が弾めば、もうそこからはオトナの時間だ。喫茶店で語り尽くした二人の間には、もはや言葉は要らない。 宝くじで手に入れた札束を手に、「綺麗な女性」としっぽりとした夜を過ごした私と同じ容姿の男………。私の永遠のライバルと認めよう。 オレ様と同じ容姿に生まれたことを感謝しな。運の良い奴め。 というわけで、永遠のライバルに対抗すべく、私も女性を夜の街に誘い出そうとしたが、見事に失敗。無念だが、1999年は奴の不戦勝にしてやった。 私も、このまま敗残者で人生を終わらせる気は無い。今年こそ失恋の無い年にしよう…。 戻る
ページ作成 熊恭太郎
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